1919年12月18日、イリノイ州シカゴ生まれ。
39年1月にマックス・ミラーのコンボでプロ・デビュー。41年からジーン・クルーパ楽団に引き抜かれて専属歌手となり、多くのジャズファンにその存在を知られるようになりました。44年にはスタン・ケントン楽団の専属歌手となり、「流す涙は酒のごとく」といったヒットを放って人気を高めていきました。
その後45年に再びクルーパ楽団に戻り、「ブギー・ブルース」「作品一番」などの快作を生み、45年のエスカイヤ、ダウンビート両誌の新人とバンド・シンガーの女性部門の1位に選ばれています。
45年末にソロ・シンガーとして独立したものの、クラブの経営に手を出して失敗したり、アルコール中毒になったりしてスランプに陥るとその存在は忘れられるようになり、40年代後半から50年代初めまでは目立った活躍はしていません。
52年、ノーマン・グランツの下で復活、ヴァーヴレコードで「アニタ・シングス・ザ・モスト」「ジス・イズ・アニタ」など名作を次々と出します。58年7月にはニューポート・ジャズ祭に出演、その様子は映画「真夏の夜のジャズ」として収められ絶賛を浴びました。
63年には初来日。78年・81年にも来日してこの時には日本でレコーディングもしています。ミルドレッド・ベイリーと共に白人女性ジャズボーカリストの先駆者的な存在で、ハスキー・ヴォイスシンガーのはしりともいわれました。
06年11月23日、肺炎で入院中していたロサンゼルスの病院で死去。享年87歳でした。
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【Tea for Two について】
1924年の作品で、作曲はヴィンセント・ユーマンス、作詞はアーヴィング・シーザー。翌25年のミュージカル「ノー・ノー・ナネット(No,No,Nanette)」で使われました。その中でこの曲だけが有名になり、このミュージカルが映画化されたときは、『Tea for Two』の題名に変わっています。
この曲が誕生した時のエピソード。シーザーはある日ユーマンスと曲を書いていましたが、疲れたので仮眠を取りました。夜にはパーティーに行く予定もあり、しばらく眠りたかったのに、眠ったと思ったらすぐにユーマンスに起こされてしまいました。曲が出来たからすぐに詞をつけてくれというのです。
「明日にしようよ。眠い」「いや、ダメ!すぐ作って!」と寝かせてくれません。ついにはピアノのところまで引きずられてしまいます。
こうなったら仕方ないと諦め、とりあえず作っておこうと寝ぼけまなこで作ったのをそのままユーマンスに渡しました。
次の日起きたシーザー、昨日の続きをやろうとすると、いや、もうあれでいいとユーマンス。
えッ、昨日のは適当に作ったやつだよと言っても、あれでいいの一点張り。頑として聞いてくれません。結局、半分寝ながら書いた歌詞が世に出てヒットし、スタンダードになってしまったというエピソードです。
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この曲、曲名の通り結構デュエットで歌われることが多いようです。最初のミュージカルのときはゴードン・マクレエとドリス・デイによって歌われました。
他にはジョー・スタッフォードとゴードン・マクレエ、サミー・デイビス・ジュニアとカーメン・マクレエ、ピプ・ヒントンとピーター・マンダーなどがあります。
ソロではリー・ワイリー、エラ・フィッツジェラルド、アニタ・オデイ、ブロッサム・ディアリー、サラ・ボーン、トニー・ベネットなど大勢の歌手が歌っています。
インストでは、まずトミー・ドーシー楽団がチャチャとスイング両方で聴かせてくれます。またスリリングな演奏でこの曲の定番ともなっているのがアート・テイタムやバド・パウエル。テディ・ウィルソン、レスター・ヤングの演奏もよく聴かれています。オスカー・ピーターソンのカルテットでの演奏もあります。
(拙サイト「Midnight Jazz Report」より)
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